futakowataru

記事一覧(108)

パートナーシップを極める集中コースはじまります

パートナーシップの真の意義ってなんでしょう。世の中にはいろんな答えがある気がしますが、長いこと僕は、全然納得いくものに出会えませんでした。僕は経済的な取引きを始めとして共依存的なものにしたくはなかったし、僕は僕の魂が求める道を進むことを諦めたくなかった。そして、それでも、この人とずっと生きたいと「思い続けられる」関係ってどんなものなんだろう、って考えてきました。今の僕はそんなわけで、パートナーシップの真の意義って、二人の魂が互い磨き合いながら成長していくことと、二人の愛の深まった奥から共同の創造が起こることなんじゃないか、と思っています。そしてそれは、ただ一緒にいるだけでは体験できない。愛があるから大丈夫、みたいな抽象論では、ごくごく一部のラッキーな人しか体験できない。しっかりした土台のある、方法論が必要だと僕は思うのです。僕はパートナーのけいこちゃんと何年もかけてそんな方法論を磨いてきました。そこには自分を見つめる智慧と技が必要になるし、二人で握り合う必要のあることもあるし、二人が衝突を起こしたときに、それを成長のために使う方法や、関係を深めるために使う方法が必要になる。とくに発達初期(胎児期・乳児期)のトラウマの扱いを知らないと、ものすごく難しい。こういうピースがついに揃う時代になってきました。こうしてかき集めたピースを、パートナーシップの真の意義を体験するために身につける、そんな半年コースが始まります。おそらくこういうレベルのものは、これまでどこにもなかったはずです。そして僕らはみんな、いつまでたってもパートナーシップではたくさんつまづくものなので、レベル高そうだなって怖じ気つく必要はありません。一緒に転びながら、でも道からはずれないように気をつける仲間と一緒に歩いてみませんか。2018年10月スタート「魂を分かち合うパートナーシップをはじめる集中コース」https://www.reservestock.jp/events/290191初回のみ、紅葉の綺麗な札幌のホテル高層階。2回目以降は都内です。

母との対話が一歩進んだ日

パートナーは鏡、とは

パートナーが自分の鏡になるっていうのは、相手がしてくる嫌なことを自分もしているとか、こっちが感謝したら向こうもしてくる、みたいなわかりやすい場合もあるけれど、もっとずっと奥深いことなんだなあと思います。お互いの感じたことを全て、反応からではなく真実ベースで語り合うってことを続けているとね。そしてむしろその、反応しちゃうところ、地雷踏まれてしまう感じのところをみつけるための鏡になってくれているんですよね。自分の全体性が傷つき、ゆがんでいる部分は、鏡無しに自分一人では見えない。相手が悪意なくナチュラルに振舞っているときに、こちらがなんらか反応的になるとしたら、それは自分の内側に見るべき何かがあるよというサイン。そこでもし、地雷を爆発させると、相手の地雷を爆発させる確率も高いし、そのエネルギーは破壊的だからお互い萎縮していくし、そんなこんなでお互い、いえないこと、やれないことが増えていく。そうすると一見穏やかな関係になるけれど(生活的には便利)、それ以上深まらず、エネルギー循環も冷えていく。地雷を爆発させるのではなく、「うわぁ、ここめっちゃ反応しちゃうよ」って反応についてメタコミュニケートして、そこにある自分の傷を癒していくなら、より全体性を回復した状態でお互いさらに深いところ、新しいところで出会い続けることができるわけです。反応をぶつけないことと、そこにある傷を自分で(サポート借りてももちろんいい)癒す責任を果たすこと。傷が癒えたらなんともなくなるような場合もあるし、傷が癒えても大切なニーズが残る場合もあるし、後者の場合はお互いのいたわりと思いやりを差し出し受け取る機会にもなる。そんなこんなで、仕事をしていく同志ならあまり反応しない距離感と性質の人っていうのもとても機能的だけれど、プライベートなパートナーは、ここに書いたような関係を作って行こうね、と握り合える人が豊かだなあと今の僕は思う。ま、修行の日々にはなるんですけどね。

あなたがしたい「結婚」とは?

僕は性格的に、機能しない不正確な観念が広まるのを指をくわえて見ていられないところがあります。で、結婚したい女子向けの結婚するための秘訣 みたいな記事が最近Facebookでシェアされていたんです。それがまさにそういうものでした。昨日のランチは彼女と一緒にこの記事についてちょっと盛り上がりました。その記事の「結婚観」は、結婚に絶望し、ほんとうの結婚を忘れ去っている現代の多くの人の声そのものだったんですよね。その人自身がどう思ってるかは知らないけど、書かれていた結婚観のことね。その結婚観を除けば、僕はむしろ賛同するところもかなりある記事だったんだけれど、目指しているところの結婚がそれじゃあ、鵜呑みにした人は根本的に道を踏み外すかもなあと思っちゃったの。***その結婚感というのは、「結婚と恋愛は違う。」「結婚は生活だから」「愛するとか愛されるとか、幻想です。」みたいなもの。そうそう。現代の自立時代にはいってよく聞く常套句です。「そんなもの諦めて、さっさと行動しなさい」って。「結婚したら幸せになれる」っていうのと同じくらい、破壊的な影響を及ぼしているやつ。「愛するっていうのは自分で自分に対してすることが全てで、誰かから愛されるんじゃない」っていうのが精神的な自立の進んだ現代の病的観念の一つだと今の僕は思ってる。もちろん自分を愛すること、自分の幸せに自分で責任を持つこと、自分の傷を自分で癒すこと、つまり精神的に自立していることはものすごく重要で、それは否定の余地がない。誰かが自分を幸せにしてくれるわけじゃないし、それを待ってていいことなんてほとんどない。ただ精神的な自立が進んで自分で自分を幸せにできるようになった人は、今の結婚制度のような1対1のパートナーシップへの意味を見失っていく。それが今、僕らの社会で進行していること。一人で幸せならそれでいいじゃないの、なんで一人とだけ愛し合うのか、と。それはそれで一理あるし、長らく僕もそう思っていました。でもね、この数年、いのちかけて取り組んで来て僕が思うのは。僕らの文化・文明は、長い間、精神的に自立しながら、愛し愛される方法を見失って来た。僕らの文化・文明は、長い間、精神的に自立しながら、深く繋がりあう方法を見失って来た。ということ。今ほど精神的に自立していない時代は、もっと強制的に二人が離れられないような時代が続いていたし、それはそれで当時は意味があった。でも今は違う。僕らは、男女問わず一人で生きていけるような時と場所に生まれている。そして、これまでの結婚や結婚観を眺めて、あるいは経験してみて、あれが結婚なら別にいらないよと思ってしまう人もたくさんいる。一方、自立している同士がどうやって愛を深められるのかは、見る機会がないし、それがどんなものか知る機会もない。***でもね、僕らの魂の記憶は知ってるわけです。知ってるでしょ。結婚というものの、元型的な意味を。愛によってとこしえに男女が一つに結ばれるというイメージを。そして僕らの魂は、それを求めてる。そこに真実の姿があるって知ってるんだもん。結婚が、今の法律上の結婚を指していて、その実態を知っていたら、そんなの人がしたがるようなものでもないし、めでたくもないじゃないですか。実際1/3くらいが、これはちがったってわけで離婚する。とはいえ、「おめでとう!愛を深め続ける予定もない人と、家族になったんですね!」とか思わないわけ。「愛するとか愛されるとかは諦めましたが、同居して共同生活できる人ができたんです!」とかで喜ばないでしょ。なんだかわからないけれど、「結婚」しようとするし、なんだかわからないけれど、「結婚おめでとう!」っていう。それは魂がそのイメージ、愛によってとこしえに男女が一つに結ばれるというイメージを知っているからじゃないかと思う。でも意識はよく知らない。自分が「結婚」を通して何を得たいのか。だから「結婚」したい人は、ほんとうは何をしたいのかを自分の魂に問うことが不可欠なんだと思います。わたしが魂から望む「結婚」ってどういうことなんだろう、と。それなしに結婚したって道に迷うだけ。***真剣に自分の魂に問いかけて、それが「愛し、愛される関係」であれば、それをこそ全力で求めたらいいと思うよ。それが「ずっと愛を深めていこうという約束」なら、それをこそ全力で求めたらいいと思う。何度心折れても、何度も立ち上がり直して、それを求めたらいい。それが不可能だと言われたり、嘲笑されたり、みたこともないものだったとしても。(もちろん「愛はなくていいけど便利な共同生活」とか、ほかにもなんでも魂から望んでいたら、それを求めたらいい。人がとやかくいうことじゃない。)先日仙台でやったワークショップでも、参加された方全員、自分の中にある、真の愛への願いを自分で救い出していたし、それは本当に感動的な場面だった。その願いをないことにして生きるなんて、死んでいるのも同じだと思うの。ま、僕も長らく死んでるも同じだったし、運よくそこから抜け出せたわけなので、偉そうなことは言えないけれどね。でももしあなたがそれを望むなら、僕はその願いをこそ応援したいって思うわけです。その道をこそ、進もうよ。週末は仙台で連続のイベントでした。ワークショップ「わたしの中の、真の愛への願いを救い出す」のときのもの。

間にある愛に、意識の焦点が当たらない現象

人との間で繰り返される不本意なパターンがあるとき

人との間で繰り返される不本意なパターンがあるとき。最悪なのは、自分が悪いって自分を責めて、自分の生命力を抑圧していくことか、相手が悪いと責めて相手の生命力を抑圧していくこと。そんなことは一切しなくていい。のびのびとした生命力を、懲罰によって押さえられていい理由なんてどこにもない。ということで、近年世間でよくいわれているのは、相手は変わらないから、自分を変えよう、というもの。おおざっぱにはいい線行ってるとらえ方だと僕は思います。***ただ、自分を変えるというのはうっかりすると、自分を否定して抑圧するっていう、最初に書いたパターンの変形版になっちゃうときがあるので要注意です。そうじゃなくて、自分は何を望んでいるのか、ということにしっかりつながって、そこから行動していくように変える。つまり自分でないものに変わるんじゃなくて、よりほんとうの自分になっていく。***でね、ここに責任を持てるようになってくると、精神的な自立が進むわけなのですけれど、ある程度こんな風にできてる上で、ある人との間で繰り返される不本意なパターンがあるとき。これは実はよく考える必要があるところで。まず大きな分かれ道として、「相手と関わり続けるのか、相手と距離を置くのか」があります。

一対一であることの、ひとまずの意味【僕らふたりの物語14】

僕とパートナーのけいこちゃんが、大変な道のりを超えて今のような関係にいたる物語。その14です。シリーズの過去記事はこちらからhttps://futakowataru.amebaownd.com/posts/categories/819316******たった一人を愛するというのはどういう事なのか。僕らはそれぞれが感じてることを、かなり違う立場から何年かかけて正直に語り続けていきました。それはけっこうしんどい作業でした。とはいえ、だんだんわかってきたことがあります。***僕らはこのトピックに限らず常に、お互いの間で感じた気持ちをすべて語り合っていました。すべて、というのがミソ。とりわけけいこちゃんのマジックワードが「で、ふたこさんはどう感じているの?」というもの。曖昧さが残っている間はやめない。「う〜ん、それだとよくわからない。」といって許してくれません。お互いが、二人の間で感じた気持ちのすべてを分かち合う。それも曇りなく曖昧さを残さずに分かち合う。そういうことをやっていったんですよね。おそらくすべてのカップルがそれぞれ全然違う感覚・感性を持っている。僕らもそうです。そしてそれは、ついわかった気になって放置することで、大きな溝を作ってしまう。そこで、その都度、可能な限りお互いがお互いに感じていることをとことん聴き合う。わからなかったときに、まあいいか、と収めないで「ああ、そういうことなのね」とわかるまで聞く。そうすると、それでしか開かれてこない愛の体験が見えてきました。