いつの間にか、自分が犠牲になってる感を溜め込む人は
僕はときどき、「なんで僕ばかり犠牲になっているのだ」と不満をため込んでいる状態になってることに気づくことがあります。
しかもほぼ、パートナーとの間でだけ感じて、僕のたくさんの友人に対してはまず感じることがない。
このパターン持ってる人、けっこういると思うんですよね。
普段から無理している意識はほとんどないから、だいぶやっかいなやつなのです。
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浅いレベルでまず見てみると、僕はわりといろんなことを受け入れられるように自分を育ててきて、たとえば食事なんかわかりやすいけれど、出てきたものは何でもだいたい美味しくいただけます。
彼女の方が、これ食べたいとかこれは食べたくないとか、はっきりしてるしはっきり言う。僕がこれ食べたいと言っても、「わたしは好きじゃない」と即答する。
僕はそれを聞いて、「まあ、そんなにはっきり嫌なら無理させる話じゃないな」と思って、「じゃあ何食べたいの」と聞いて、出てくる答えはほぼすべて僕も美味しくいただけるものなので、それを食べることになります。
食事に限らずですけれどね、いろんな物事に関して、僕の方が圧倒的に合わせるキャパが大きいので合わせることになります。
その時はそれでいいと思ってるんですよね〜〜。ほんとにまあ。
だけど、これが微細に見ていくとだいぶよくないらしい。
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もう一歩踏み込んでみてみると、他者に合わせられるキャパを広げる、という生き方は、僕が不本意ながら身につけてきたサバイバル戦略の要素を持ってるのでした。全部じゃないけどね。
最近よく語っているアーリートラウマで言うと、2番、もっと確保しようとする防衛。
この防衛(サバイバル戦略)のテーマは、自分のニーズが確保されない痛みに対する防衛。軽症だと、もっともっと欲しがるという形で痛みを回避しようとするし、僕みたいに重症だと、どうせニーズは満たされないから最初から諦めよう、執着は手放そう、その方が楽だよ〜、という形で回避しようとします。
これ、0歳の頃に自分のニーズを諦めざるを得ないと感じたことで、それ以降、諦め続けるのがデフォルトになっているのね。赤ちゃんが泣いて訴えたけれど、聞き届けられなかった、と感じた(客観的な出来事がどうであれ)。 その結果もう、「訴えたけれども聞いてもらえない、という痛みは感じたくない」というのが深くセットされてしまったというわけなのです。
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それがあって、僕は彼女に(あるいは身近な人に)自分のニーズを繰り返し諦めずに伝える、みたいな力がほんとか弱い。一度いやといわれたら、もう一回言うのはたいへんすぎる。ちゃんと聞いてもらえない痛みには、もう出会いたくない。
僕はこの状態を相手にも投影してるから、相手が表明したニーズはすごく大切に扱ってしまう(苦笑)。
一方彼女はその傷は大きくないので、「一度で引っ込めるくらいだから、別にいいんだろうな」と理解してます。
結果、僕のニーズは常に後回しになるという状況が生まれて、少しずつ確実に不満をためていくことになるのでした。これもまあ美味しくいただけるけれど、僕はあれも食べたいのに食べられない。僕のニーズは大切に扱ってもらえない。みたいに。
だから相手のニーズに「いいよ」と応じていることが問題なのではなくて、自分のニーズをいつまでも満たしてあげないことが問題の本質。
このあたりを先日ふたりでじっくり話し合って解明したのでした。
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で、僕は自分のニーズをまずは自分でしっかり握って、彼女に繰り返し諦めずに伝えることを行動レベルでもやることが僕の回復なので、それをやる。
彼女は、詳細省くけれど、相手のニーズを尊重するというところが別の防衛でだいぶおろそかになっているので、僕からのニーズの表明を注意深く受け取る、というのをやる。
そうやっていこう、と握りあったところ。
たましいを分かち合うパートナーシップって、例えばこういう事です。
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