ふたこ放牧タイムの話3 〜放牧を越える
僕は基本一人きりの時じゃなきゃリラックスできない体質で、それはもう変わらないことだと思い込んでたけれど、そうでもないかもということで「放牧タイム」導入してみたという話を書いてきました。
この「放牧タイム」、僕とパートナーが一緒に幸せで在れる場所というか、あり方というか、道というか、それを求めて、たくさんのセルフワークと、たくさんの真実の分かち合いによって築かれているんですよ。
僕がどんな傷を持っていて、どんな風に反応してしまうのが辛いのか、パートナーとの関係で何を求めているのか、どんな時にそれが得られるのか、そういうことをあれこれためしながら、僕自身のことを詳細に観察して、それをパートナーとシェアする。
彼女のことについても、彼女の深いニーズを彼女自身で探求して、それを僕とシェアしてます。放牧タイムとは別に。
あくまで自分ごととして探求して、それを分かち合う。
そういう真実の分かち合い。
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先日もその探求をする時間を持ちました。公園で今から10分、放牧タイムね、と枠組みを決めてスタート。そしたらまた、大きく前進することになった。
僕は、彼女が立ち上がるだけで僕の中で注意が引っ張られたりする、から始まってすべての体験を観察しながら過ごしました。(今思ったけど、こういう研究めいたことは僕は勝手に喜んでやってる 笑)
彼女は裸足になって草はらを歩いたりしてるだけなんだけど、僕はずっと注意を引っ張られるんですよね。僕が目を離したすきに何かあったらいけない、って。まるでちょっと危険な場所で子供を遊ばせているときみたいな緊張感がずっとある。これは前から書いてる乳児期・胎児期の影響。
そうこうしているうちに彼女はベンチに座ったので、僕も隣に座って、手を取って横からくっつきました。
そのときも彼女は、全くぶれずにただいてくれた。
それで、「ああ、やっぱり僕はつながっていたいんだ。相手をケアしなくていい安心感を持ちながら、繋がっていたいんだな。」とわかりました。僕がどうあっても、大丈夫。その安心感。
そして会話もせず、ただ手の温かさを感じ、ただ彼女の手や腕に見とれている時間がとても幸せに感じられたのでした。元々の僕は、こういう体験をしたことがなかったし、求めてもいなかったことを考えると、なんという前進。
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終わった後で彼女も自分の発見をシェアしてくれたんですけれど、これも面白くて。
彼女は子どもの頃、とある海沿いの街でいつも近くの浜に行って、その美しさを受け取り、こころ打たれていた時期があります。そのことばにならない特別な美しさを、いつか誰かと分かち合いたいと思っていたそうです。でもそれができる人はこれまでいなかったし、機会もなかった。
で、そのときの公園は写真のようにとても優しく美しい光に包まれていたのね。
「こういうのを分かち合いたいと思っていたんだけれど、それはことばでなにか伝え合うんじゃなくて、その美しさを一緒に見ながらただ在ることができたら、むしろその方が満たされるんだ。ふたこさんは今、そう在ってくれた」と思ったんだそうです。
僕がさっき、彼女の手の美しさを、何の邪魔もされずにただ味わっていたのと、なにか通じるものがあると僕は思いました。そしてもちろん僕も、自然の美しさを受け取るのは大好物。そして僕も大抵、自然を前にすると一人になる。
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なので、「ちょっと1分だけ試したいことがあるからいいかな」と言って、手をつないで、この写真にとった夕暮れの景色の美しさをそれぞれ受け取る。つながりながら受け取る。そういう時間を持ってみることを提案しました。
その1分間がね〜〜〜〜〜。
最高でした。
この優しく柔らかな夕暮れ時。地面に長く落ちる木の陰。葉の間からキラキラと見える陽の光。美しかった〜〜〜。自然に泣けてきてしまいました。
この体験をなんと表現したらいいのか、まだうまいことばが見つからないんですが、人とのあたたかなつながりと、自然の美しさとを同時に受け取っている感覚なんだけど、ほんと特別だったの。こんな風につながることができるとは。
こんなふうに自分の内側を見つめながら、それを真実から分かち合いながら、放牧タイムやふたりにとってのこころ満たされる道の模索を続けるのでした。
また、いろいろ実験してみて、これはもはや「放牧」ではないのだなとも思いました。
それぞれの地雷を抱えながら、まあそれは癒していくにしても、地雷を抱えながら、安心してつながっていられるやりかたを見つける。それを目指していきたいねと。
こんなふうにパートナーとの関係を深めていけるのって、幸せなことだなあ。
読んでくださってありがとうございます。
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